私が常日頃疑問に思っていたことがあります。それは、法華経を読むたびに、仏の呼称が「我」「世尊」「釈迦牟尼仏」「仏」「如来」と様々であることです。特に、「仏」と「如来」が意識的に使い分けられるように見えることが不思議でした。
そこで、生成AIの助けを借りて、以下のようにまとめてみました。驚いたのは、そのリサーチ力の素晴らしさだけでなく、本件ではChatGPTよりもはるかにGeminiのほうが良い仕事をしてくれたことです。しかも、頼んでいないのにも関わらず、ちゃんと法華経を例に挙げてくれているのです。
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経典に秘められた「悟った者」の呼び名の真意とは

仏教の教えに触れると、「仏(ぶつ)」という言葉と「如来(にょらい)」という言葉、どちらもよく耳にするのではないでしょうか。「仏様」や「阿弥陀如来」など、私たちの生活にも浸透しているこれらの言葉ですが、経典の中ではどのように使い分けられているのか、疑問に感じたことはありませんか?
一見すると同じような意味に思えるこの二つの言葉には、実は深い意味合いと使い分けがあります。今回は、仏教経典の視点から、「仏」と「如来」がそれぞれ何を指し、どのように使われているのかを、具体例を交えながら探っていきましょう。
「仏」とは? 普遍的な「目覚めた人」
まず、「仏」という言葉から見ていきましょう。
サンスクリット語の「Buddha(ブッダ)」の音写である「仏」は、「目覚めた人」「悟りを開いた人」「覚者」という意味を持っています。これは、迷いの世界から完全に目覚め、真理を悟りきった存在を指す、最も一般的な呼称です。
私たちが「お釈迦様」と呼ぶ仏教の開祖、ゴータマ・シッダールタも「釈迦牟尼仏」と称されます。彼の生涯や教えを記した多くの経典の冒頭には、決まって「仏」という言葉が登場します。
例:多くの経典の冒頭
多くの仏典は、「如是我聞(かくのごとく我聞く)一時(いちじ)仏(ぶつ)...」というお決まりのフレーズで始まります。
「如是我聞。一時、仏、王舎城(おうしゃじょう)に在し、耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に住したまえり。大比丘衆(だいびくしゅう)千二百五十人と倶に。」 (意訳:私はこのように聞きました。ある時、仏は王舎城の耆闍崛山におられました。千二百五十人の大勢の比丘たちと共に。)
ここで登場する「仏」は、まさしくその時、弟子たちに教えを説いている釈迦牟尼仏その人を指しています。彼は私たちと同じ人間として生まれ、修行を通じて最高の悟りを開いた「目覚めた人」なのです。
「諸仏」という表現に見る「仏」の広がり
さらに、「仏」という言葉は、特定の仏陀だけでなく、**あらゆる時代の、あらゆる世界の「悟った者」**を指す際にも使われます。この場合、「諸仏(しょぶつ)」という表現がよく用いられます。
例:『阿弥陀経(仏説阿弥陀経)』
浄土教の根本経典の一つである『阿弥陀経』では、西方極楽浄土にまします阿弥陀仏の広大な功徳が説かれます。その経典の締めくくりには、十方(あらゆる方角)の無数の「諸仏」が、阿弥陀仏の素晴らしさを讃嘆する場面が描かれています。
「舎利弗、然れば則ち、彼の諸仏も亦皆、無量の功徳を説きて、一切衆生に利益を与え、安穏を得せしむ。彼の阿弥陀仏の功徳は不可思議なるが故なり。」 (意訳:舎利弗よ、そうであるから、あのあらゆる世界の諸仏もまた、皆、無量の功徳を説いて、すべての衆生に利益を与え、安穏を得させるのである。あの阿弥陀仏の功徳は、測り知れないほど偉大であるからだ。)
ここでは、「諸仏」という言葉で、阿弥陀仏以外の、あらゆる時空に存在する多くの悟った存在を包括的に指しています。つまり、「仏」は、悟りを開いた普遍的な存在としての意味合いを強く持っているのです。私たちがよく知る「阿弥陀仏」や「薬師仏」といった個別の仏様の名前にも「仏」が使われているのは、彼らもまた「悟りを開いた者」であるからです。
「如来」とは? 真理から来現した究極の覚者
次に、「如来」という言葉を見ていきましょう。
「如来」は、サンスクリット語の「Tathagata(タターガタ)」を和訳した言葉です。「如」は「真如(しんにょ)」、すなわち「ありのままの真実」「真理」を意味し、「来」は「来現した」「現れた」という意味合いを持ちます。
このことから、「如来」は「真理から来た者」「真理のままに現れた者」という意味になります。これは、「仏」が悟った「真理」そのものを体得し、その真理のままにこの世に現れた、究極的な悟りを開いた存在を指す、より深遠な意味合いを持つ尊称です。

「如来の十号」に見る最高の尊称
「如来」は、仏の持つ特別な徳を表現する「如来の十号(じゅうごう)」と呼ばれる十種類の尊称の一つであり、その第一番目にあたります。他の九号には「応供(おうぐ)」「正遍知(しょうへんち)」などがありますが、これらはすべて、仏の優れた徳や能力を表しています。
つまり、「如来」という言葉は、単に「悟った人」というだけでなく、その悟りの内容が宇宙の真理そのものであり、その真理を体現している存在としての仏を強調する際に使われるのです。
例:『法華経』「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六」
仏教経典の中でも特に重要な『法華経』の「如来寿量品」では、釈迦牟尼仏が、実ははるか久遠の昔にすでに成仏しており、この世に現れたのは衆生を導くための「方便」であったことを説き明かします。ここでは、真理に根ざした仏の永遠性や、その存在の本質が語られるため、「如来」という言葉が頻繁に用いられます。
「是の如来の種々の方便、諸(もろもろ)の教化の事(こと)は、皆(みな)これ真実にして虚妄(こもう)なし。」 (意訳:この如来の様々な方便、多くの教化の事柄は、すべて真実であり、偽りではない。)
この箇所では、釈迦牟尼仏が単なる歴史上の人物ではなく、**永遠の真理を体現する存在としての「如来」**であることを強調しています。彼は、衆生を救うために様々な姿でこの世に現れるのですが、その根源には揺るぎない真理があることを示しているのです。
また、経典の中で弟子たちが仏に問いかける際などには、「世尊(せそん)」や「大師(だいし)」といった尊称と共に「如来」が用いられることが多くあります。
「世尊、この如来の深き教えは、いかにして信受(しんじゅ)すべきか。」 (意訳:世尊よ、この如来の深遠な教えを、どのように信じ受け止めたらよいのでしょうか。)
これは、教えを説く仏が、同時に**真理を体現した「如来」**として、最高の尊敬をもって敬われていることを示しています。
「仏」と「如来」の使い分けのニュアンス
ここまで見てきたように、「仏」と「如来」は密接に関連しながらも、そのニュアンスに違いがあります。
- 「仏」はより一般的な呼称であり、悟りを開いた存在全般を指す際に使われます。「覚者」という本質的な意味合いが強いです。
- 「如来」は「仏」の中でも、特に真理を体現し、その真理から来現したという側面を強調する際に使われる尊称です。より厳かで、究極的な悟りの深さを表すニュアンスがあります。
例えるならば、「仏」が「大学教授」という一般的な呼称であるとすれば、「如来」は「〇〇大学名誉教授で、宇宙の真理を究明した第一人者」といった、その教授の特別な功績や存在の深さを讃えるような尊称、と考えると分かりやすいかもしれません。
仏像の世界でも、その違いは表現されています。最も高い位の仏像は「如来」と呼ばれ、質素な衣をまとった姿で表現されることが多いです(大日如来を除く)。これは、彼らが世俗的な装飾を超越した、真理そのものの姿を体現していることを示しているとも言えます。
まとめ:深遠なる仏教の世界への入り口
仏教経典における「仏」と「如来」の使い分けは、単なる言葉の定義に留まらず、仏の悟りの境地やその存在の深さを理解するための重要な手がかりとなります。

普段何気なく使っている仏教用語にも、一つ一つに深い意味が込められています。こうした言葉のニュアンスを知ることで、経典の教えがより立体的に見えてきたり、仏教に対する理解がさらに深まったりするのではないでしょうか。
今回の記事が、皆さんの仏教への興味を深める一助となれば幸いです。もし、この他にも気になる仏教用語があれば、ぜひ教えてくださいね!